ブンブン丸」という愛称でプロ野球ファンに親しまれた池山隆寛さん。

現在はヤクルトスワローズ2軍監督として、未来のスターを育てています。

しかし、今の落ち着いた指導者の姿からは想像できないほど、若い頃の池山さんは“豪快”で“破天荒”な選手でした。

この記事では、池山隆寛さんの若い頃にフォーカスし、

そのプレースタイル、成長の過程、そして今に活きる経験を振り返ります。

プロフィール

池山隆寛さんは1965年12月17日、兵庫県尼崎市に生まれました。地元の市立尼崎高校では三塁手・3番打者として活躍し、1983年夏の甲子園に出場。その打棒は高校野球ファンの間でも注目の的でした。

そして同年のドラフト会議では、ヤクルトスワローズをはじめ3球団から2位指名を受け、抽選の末ヤクルトに入団。まさに運命的な出会いでした。背番号は36、遊撃手としてプロキャリアをスタートさせます。

生年月日1965年12月17日
出身地兵庫県尼崎市
身長/体重183cm / 75kg
投打右投げ・右打ち
出身校尼崎市立尼崎高等学校
プロ入り1983年ドラフト2位(ヤクルト)
現役期間1984年 ~ 2002年
ポジション遊撃手・三塁手

通算成績

出場試合数1,784試合
安打数1,521安打
本塁打304本
打点898点
盗塁108盗塁
四球580四球
三振1,440三振
打率.262
長打率.473

主な表彰は、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞1回

⚾ 初期の苦労とプレースタイル:ブンブン丸の誕生

1984年に1軍初出場を果たすも、若手時代は打率が低く、三振も多いなど悩みも多かった池山さん。それでも、フルスイングを貫く姿勢は一貫していました。

この思い切りの良さが、やがて「ブンブン丸」というニックネームを生み出します。三振も多いけれど、当たればスタンドに運ぶ――ファンの間で「豪快な若手」として話題になり始めた時期です。

〇三振を恐れずに振り続けた姿勢が後の30本塁打につながった

〇若さ溢れる豪快な打撃は、ファンから絶大の人気を得た

🌟 ブレイクスルーと全盛期:遊撃手で史上初の快挙

池山さんの本格的なブレイクは1988年。ここから5年連続で30本塁打を達成します。さらに1990年には打率.303、31本塁打、97打点と大爆発!これは「遊撃手で史上初の3割30本」という快挙で、攻撃型ショートとしての地位を完全に確立しました。

この池山さんの大ブレイクは、当時の監督である関根潤三氏なくしてはありませんでした。こちらの『Number Web』の記事が最高ですので、ぜひご覧ください。

ツバメの観察日記Number Web

ブレイク後の池山さんはメディアへの露出も大変多くなり、

「珍プレー好プレー」などの野球関係の番組出演や、

人気漫画にもキャラクターとして登場するなど、野球ファン以外の知名度も飛躍的に増しました。

💪 挑戦と成長:三振王からの脱却

若い頃の池山さんは、毎年リーグ上位の三振数を記録する“三振王”でもありました。批判も多かったものの、自分の長所を活かすそのスタイルを曲げませんでした。

しかし、野村克也監督が就任し“ID野球”が浸透すると、池山さんの打撃も変化。ノーステップ打法を取り入れるなど、状況に応じた打撃を身につけ、打率も向上していきました。

👥 若い頃と今のつながり:指導者としての池山イズム

豪快に振り続け、試行錯誤し、成長していった若い頃の池山さん。その経験が、いま若手を育てる立場に立った彼の大きな武器になっています。

現在の2軍監督としての指導では、若手選手にこう指導するそうです。

📌 池山流・若手への3つの教え
① 思い切って振れ
② ミスを恐れるな
③ 練習は裏切らない

この考えは、若い頃の池山さん自身が歩んできた道そのものですね。

ブンブン丸DNAは受け継がれる

池山さんは、若い頃から「派手」「三振が多い」「バッティングは魅力的だ」と賛否両論のある選手でした。それでも自分のスタイルを貫き、努力で成長し、スター選手へと上り詰めたことが、今も多くのファンに愛される理由です。

現在は2軍監督として、池山イズムを若手選手に注ぎ込み、次世代のスターを育てています。

次の神宮球場でのヒーローは、池山さんの教えを胸に育った若手かもしれません。ファンとしては、「ブンブン丸DNA」がどのように進化していくのかを見守る楽しみが尽きません。