広島で野球を始めた少年が、野球を「辞めよう」と思った時期を乗り越えて、

いまドラフトの目玉の1人になっています。

鷺宮製作所の左腕・竹丸和幸選手。

家族について多くを語ることはありませんが、

その背景には、広島の地で育まれた粘り強さと、人知れぬ支えがあるように感じられます。

迷いながらも一歩ずつ前へ進んできた左腕の歩みを、静かにたどってみます。

広島から始まった野球人生

竹丸和幸選手は、広島県出身の2002年2月26日生まれです。
小学2年の頃に野球を始め、中学では軟式野球チームに所属していました。
広島は、プロ野球・カープを中心に野球文化が深く根付く地域。
そんな土地で育った竹丸選手も、自然とボールを握り、投げる楽しさを知っていったのでしょうね。

高校は地元の崇徳高校へ進学。
伝統ある野球部で、仲間たちと日々練習に励みました。
しかし当時はチームの主力ではなく、「3番手投手」としてベンチを温めることも多かったといいます。
甲子園出場の経験もなく、全国的に注目される存在ではありませんでした。
それでも竹丸選手は、地道に練習を重ねていきました。
その姿勢が、後に大きな力となっていきます。

名前竹丸 和幸(たけまる かずゆき)
所属鷺宮製作所 野球部(社会人野球)
ポジション投手(左投げ・左打ち)
生年月日2002年2月26日
出身地広島県
身長/体重178cm/69kg
出身校崇徳高等学校(広島) → 城西大学
投球スタイルスリークォーター左腕/制球力重視タイプ
最速球速152km/h(報道値)
特徴コントロールが良く、試合を作るタイプ。多彩な変化球を自在に操る。
趣味一人カラオケ(鷺宮製作所公式選手紹介より)
注目ポイント読売ジャイアンツがドラフト1位指名を宣言

「辞めようと思っていた」からの転機

高校を卒業するころ、竹丸選手は一度、野球を辞めようと考えていたそうです。
「野球を続けようと思っていたわけではない。辞めようと思っていた時期もあった」と本人が語っています。
そんな中、周囲の勧めに背中を押され、城西大学へ進学して野球を続ける道を選びました。

大学では関東大学野球連盟の2部リーグでスタートしましたが、努力を重ねて4年春には1部リーグのマウンドにも立ちました。
どんな環境でも腐らず、前を向いて取り組む姿勢。
それこそが、竹丸選手の成長を支える根本的な強さだったのだと思います。

大学時代は主にリリーフとして活躍!1部昇格に大きく貢献しました

鷺宮製作所で開花した左腕

大学卒業後は、社会人野球の名門・鷺宮製作所へ入社しました。
入社1年目から登板機会を得て、冷静な投球で評価を高めています。
最速152キロのストレートを軸に、スライダーやカットボール、チェンジアップなど多彩な球種を操ります。
「どの球種でもストライクが取れる」「ゲームメーク能力が高い」とスカウトからも高い評価を受けています。

派手さはないものの、試合をしっかり作る安定感が魅力です。
その堅実なピッチングは、社会人野球の舞台で確実に信頼を積み上げています。
いまではプロのスカウトも視察に訪れるほどの注目株に成長しました。

社会人野球ではルーキーイヤーから主に先発投手としています

読売ジャイアンツが竹丸和幸をドラフト1位指名へ

2025年10月22日、読売ジャイアンツが社会人野球・鷺宮製作所の竹丸和幸投手を、
同年のドラフト会議で1位指名する方針を正式に発表しました。
球団関係者によると、竹丸投手は「即戦力となりうる左腕」として高く評価されており、
最速152キロの直球と多彩な変化球、そして制球力を兼ね備えた投球スタイルが決め手となったとのことです。

ジャイアンツは長年の課題であった「先発左腕の強化」を目標に掲げており、
竹丸投手をローテーションの中心として育成する構想も示しています。
出身地・広島から全国区へ――その歩みが、ついにプロの舞台で大きく花開こうとしています。

見えない“支え”と広島の原点

竹丸選手の家族について、詳しい情報は公表されていません。
けれど、幼い頃から野球を続け、迷いながらも前に進み続けてきた姿を思うと、そこには支えてくれた誰かの存在があったのではないでしょうか。
広島という野球文化が根付いた土地で育ったこと、そして努力を惜しまない精神。
それらが、竹丸選手の原点にあるのだと思います。

どんな場面でもあきらめない心。
それはきっと、彼が広島で過ごした日々の中で自然と身につけたものなのでしょう。

まとめ

社会人野球での実績を重ね、いまではドラフト候補として名前が挙がる竹丸和幸選手。
広島で野球を始め、大学で磨かれ、社会人で開花した左腕が、次に目指すのはプロの舞台です。
その投球には、地元への誇りと、支えてくれた人たちへの感謝、そして静かな決意が込められています。